2017年8月13日日曜日

墓参り

 13日、妻と2人で旧津久井町根小屋にある山下家の墓参りに行きました。
 次男家族が先に来ていて、墓掃除をしてくれていました。



 暑い中、のびた草をきれいに抜き取り、墓石もきれいに洗われ、汚れもしっかりとれていました。
 私たちは、きれいになった頃に到着したので、大変助かりました。
 花やお供えものも用意してくれていたので、にぎやかな墓参りになりました。



 その後、私たちは妻の両親の墓参りに行きました。

2017年8月11日金曜日

感動しました!原水爆禁止世界大会

 核兵器禁止条約が採択された直後の原水爆禁止世界大会・長崎は、喜びと確信、展望と決意に満ち溢れた感動的な大会となりました。
 開会総会での主催者報告で「ゼロに1億を掛けてもゼロだが、1に1億を掛ければ1億になる」の言葉は印象的でした。誰も力を出さなければ何人いても力にならないが、1人の力が積み重なれば、大きな力を発揮する。まさにその通りだと思いました。
 核兵器禁止条約交渉会議をリードしてきた中満泉・国連軍縮担当上級代表の開会総会での発言や、閉会総会で、ビッグサプライズと紹介され読み上げられたエレン・ホワイト議長のメッセージに会場割れんばかりの大きな拍手と歓声で盛り上がり、画期的な今大会を象徴するものでした。
 開会総会には6千人、閉会総会には7千人が集い、会場は超満員で熱気に包まれ、大会は大成功しました。



 2日目は、動く分科会「被爆遺構めぐり」に参加しました。
 午前8時30分に爆心地公園に集合し、34班(1班20人ぐらい)と健脚コース3班に分かれ行動しました。
 写真にある原爆中心地標柱の上空500mで原子爆弾がさく裂しました。


 原子爆弾の熱線と爆風で浦上天主堂は破壊されましたが、南側の壁は残り、爆心地公園に移築されました。



 爆心地から約600mの山里小学校では、除草作業や防空壕堀りをしていた32名の職員のうち、生存者はわずか4名でした。児童数は1,581名でしたが、夏休み中のため約1,300名が自宅やその周辺で死亡しています。




 
 余談ですが、山里小学校近くの交差点は、通学時間帯(7:00-8:30)での歩車分離式信号になっていました。


 10歳の時、学校の塀で蝉をとっている時に被爆にあった大塚さんの体験を「被爆恊講堂」で約1時間聞きました。
 大塚さん自身は、お寺の墓場に逃げ、重症ではなかったものの、家族は白血病、壊疽で」死んでいき、8月9日は被爆の始まりで、苦しみの始まりだと語ります。
 今でも蝉の声は嫌い、8月は恐ろしいと言う大塚さん、核兵器禁止条約を力に、二度と被爆者を出さないよう、残された時間は少ないが、頑張っていきますと決意を表明されました。
 


 9日の朝早く、相模原代表団で平和公園に行き、平和記念像の前で祈り、持参した鶴を掲げました。




 
 長崎原爆資料館の屋上にある碑の横に、「中学校区網の目平和行進」と書かれた短冊がいっぱいつるされていました。近くにいた人に聞くと、「学童の子供たちが、自分の近くを核兵器廃絶を求め行進しているんです」と説明してくれました。



 最終日は大雨になりましたが、3日間それ程暑くもなく、無事帰宅できました。
 動く分科会はよく動きましたので、2日たった今日になって身体の節々が痛んでいます。